地元小噺 ~地名「粟野」の由来~

こんにちは。もう師走も終わりですね。

2017年もあと1週間を切ってしまいました。

今年最後に、長門粟野駅で発見した粟野小学校の生徒さんが

書かれた地名の由来にまつわる記事がとても上手にまとめられていたの

で掲載させていただきたいと思います。

1281年に日本へ攻めてきた蒙古軍(元寇の役)の一支隊が土井ヶ浜と

粟野川より上陸し、土井ヶ浜より上陸した部隊は神玉から滝部、田耕まで

攻め上がりました。

一方粟野川より上陸した部隊は郷西下から安崎にあがる分かれ道

(粟野橋側よりニシエフへと向かう際の川沿い)で日本軍と大きな戦闘に

なり、そのとき日本軍と蒙古軍の多くの戦死者が出て、死者の血で川の

岸が赤く染められたことから赤岸と呼ばれるようになったそうです。

 

蒙古軍は更に攻め上がって、今の粟野小学校の前の平地で第二の

激しい戦闘になり、日本軍は押し攻められ情勢が悪くなってきたときに

どこからともなく一本の白羽の矢が飛んできて、蒙古軍の大将の額に一

本の矢が刺さり、ついに大将を討ち取って日本軍は勝利しました。

そして戦死した蒙古軍の大将は粟野川の泡になり消え去ったという逸話

から、泡の字が粟になり、現在の粟野という地名になったそうです。

地名由来は他説ありますが、粟野川は別名で白羽川と呼ばれているのも

戦闘時の一本の白羽の矢にちなんでつけられたとされていて、付近の

小字に「唐の原」(当時は外国のことをすべて唐といっていたことから、

蒙古軍との戦闘があった事より唐の原と呼んだものと推測されて

います。)という文字が今も残されていることからかなり有力な説ではない

かと思います。

(参考文献:金重浩波氏「地名を決める」(豊北町郷土文化研究会『にぎめ(21)2006』より)

 

 

古代激闘の地で約半世紀FRP造船業一筋で続けてこられたこと、そして

更に半世紀先も継続できる企業として2018年も邁進したいと思います。

皆様にとっても2018 年が良い年となりますように。

 

          「赤岸」   蒙古軍と日本軍の戦闘の地

 

 

 

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